客観的主観

先週の月曜日はとても死にたかった。


まあ希死念慮は慢性的なもので、それも困ったものだが、落ちる所まで落ちるとかなり困る。


そもそも最近、体調がおかしい。

胃腸・不調(CV:ジョイマン高木)である。食欲はやや落ち、特に脂っこいものは多く入らない。胃もたれ?胸やけ?そんな不快感が常態化している。加えて、ほぼ毎日腹痛に襲われており、総じて迷惑だ。外出時など突発的な場合も少なくないので、実害は無視できない。医者に相談した方が良いのかな。咽せ易くなった気もする。頭がくらっとする瞬間もあるが、それこそ気の持ちようだろうか。

一連の不調の原因は、根本的には、生きていることに尽きる。死んだら好調も不調もないので当然に。


浮き沈みは誰にでも普通のことだが、その程度が恐らく不健全である。生死を行ったり来たりする極端な回路は、草臥を蓄積させる。

とは言え、病名を与えられるほど重度ではない。はず。

日々それなりに楽しみなこともある。それなりに恵まれていることも分かっている。

死んだら家族を苦しませる。現時点で楽に死ぬ術は無い。

積極的だろうが消極的だろうが、生きる理由は確かに見える。


死にたいと思ったとき、死にたいと思っている/思っていた人のブログを読むと面白い。

どんな事柄を受け、どんな思考を経て、「死にたい」に至ったのか。そして、少なくともブログを書いた時点まで、如何にして生き延びたのか。

死に唯一の希望を求めるほど視野が狭窄した状況について、他者を通じて解いていく作業。

 

遺族の方による話も参考になる。

自死が遺したあまりに複雑な感情を、一生背負い続けること。それが容易でないことは元より明白だが、実際に言語化されたものを目の前にすると、至極残酷で耐え難い。

自らに置き換えて細かく想像する度、堰を切ったように涙が溢れる。そして思い出す。「死にたくないんじゃん」。


生の放棄は、最終的には、自分の内側の世界で起こっている諸問題を解決するための選択肢だ。

けれども、外側の世界に目を向けたとき、その選択が性急であるとか、或いは独り善がりである可能性に気がつくかも知れない。


だいたい、本気で死ぬのなら「何もしない」に徹すれば良い。例えば水分も食料も一切摂らない。ただ静かに待っていれば、いずれ朽ちていく。

それなのに、コンサートのチケットを申し込んで、有難いことに当選して、喜んでいる自分がいる。少なくともその日まで、生きたいんじゃん。

 

と、いうことなので、進退を考えるのは後にしよう。但し体調は早くどうにかしたい。