ガキのままで
北京五輪で4回転アクセルに挑んだ羽生結弦選手が「僕の心の中に9歳の自分がいて、あいつが跳べってずっと言ってたんですよ」と語ったのは記憶に新しい。
転倒や回転不足はありながらも、4回転アクセルとして国際スケート連盟に認められたのは世界初だとか。
そんな功績を残した彼の言葉を引き合いに出すのは恐縮極まりないが、しかし近頃、どこか似通ったことを考えていた。
子ども心を抱き続ける尊さについて、だ。
ひとまず成人とされる年齢に達し、大人の知見や感性を身につける豊かさは理解してきた。できることが増えるのは、おおかた得である。
けれども、ただ大人になって、ただ賢くなる一方では、ただ詰まらない人間になる。ただでさえ止むなく生きている私には、それは無意味も同然に感じられる。
私から見てイイ大人に共通しているのは、目が輝いていること。皆何か夢中になれる物事に出会い、各々の人生に心を弾ませている。
大人である以前に、純真で無邪気にはしゃいでいたあの頃の自分を失わずに在りたい。
私にとって“あの頃の自分”との最も鮮明な接点が、車だったりする。理由なんて知らないが、幼いながらに、忘れ難い興奮と憧憬がそこにはあった。国産大衆車からフェラーリへと転向しても、核は何も変わっていない。恐らく心が壊死しない限り、現の夢として追い続けるだろう。
その文脈で、家庭をはじめとする周囲の環境は案外影響しているように思う。
仮に私の父が世間一般のサラリーマンだったとする。毎日のルーティンで会社に通い、ストレスと共に帰宅する姿を見ながら、ごく平均的な経済レベルに暮らしていたとしたら。大人になるとはそういうことだ、と誤って理解していたかも知れない。フツウは毒になり得る。
但しそれは受動的な話。
どんな世界を見るか、自分で選びたい。もっと言えば、自分で作りたい。