4月11日から10日。早いような遅いような。


その日も愛犬の通院だった。日によってムラはあるものの、少しずつ元気になってきていた。そう思っていた。前々日の金曜日には、2週間ぶりにドライフードを食べてくれたし。それを踏まえた上で「念のため」点滴と血液検査をすることになったのだ。


2時間後に迎えに行くと、血液検査の最中だった。点滴を終えた愛犬を連れて、私は一足先に車へ戻る。待合室で待機させるのはストレスになると考えたからだ。検査結果は私も直接聞きたいところであったが、母一人に委ねた。


窓越しに窺える母の表情が陰ったあの瞬間を、今でも鮮明に覚えている。数値が上がっていた。一度悪くなった腎機能が回復することはなく、犬の場合は猫と比較して、病気の進行が速いのだと。「年単位で生きることは厳しいかもしれない」。そう告げられたらしい。

 

 


整理できなかった。


数分の間、私は涙することもなく、揺れる車の中で、ただ愛犬に声を掛け続けていたと思う。


先が長くない。それは、心臓弁膜症と判ったときから、腎不全と判ったときから、特に意識してきたことだった。そもそも私は、共に暮らし始めるときから、いつか必ず別れが来ることも、それが今日明日のことである可能性も、絶えず頭に入れていたから。


でも。いざ現実に、残された時間の短さを言葉で知らされると、こんなにも悲しい。来年も誕生日を祝えるだろうか。来年も桜を見られるだろうか。「長くて1年」なのであれば、今年の夏を越えられるだろうか。世界が終わっていくような気がした。


どんなに一日一秒を大切にしたって、時は過ぎていく。どんなに手を伸ばしたって、遠く離れていく。始まりがあれば終わりがある。命も同様だ。況して犬は人間よりも成長が早い。そう理解していても、この果てしない遣る瀬無さを抱えて生きるのは、私には難しい。