自分であること

“女性関係”について問われる度に思う。僕が女性を好きになるという前提は(その事実を示していない状況において)なぜどのように生じるのか。答えは明らかで、要するに多数決の原理なのだろうが。


特別な事情を介さなければ、この類のコミュニケーションを理由に気分を害することはない。元より相手の思慮に多くを期待していないし、そもそもこの違和感は“当事者”しか経験し得ないはずだから。


僕の現在の態度を言語化するなら、「恋の対象を性別によって限定しない」が概ね適当である。ここでは簡潔な記述を優先し、注釈は与えない。


必要性が認められないうえに一定のリスクが予測されるため、現時点では公然たる明言は避けているが、過保護に扱うつもりも無い。各位の読解力に委ねるくらいが丁度いい。


幼少期から、価値観や趣味嗜好などの側面で周囲との不一致に慣れてきたため、少数派に属することそれ自体への抵抗は覚えない。苦痛の因子となるのは、ジェンダーの文脈における静かで強かな圧力。


僕は自分自身を一先ず男性だと認識しているものの、内面に鑑みればこそ、そう断定する気分にはならない。実感としては、相対的で流動的。どちらにも属さないまま、どちらにも通じていたい。


男らしさとか女らしさとか、概念自体は否定できないし、個人的な理想として胸の内で期待する分には自由だ。しかし、それを絶対的な価値観として共有されるとき、僕の尊厳は失われる。ジェンダー以前の問題なのに。


中性的であることは、もうアイデンティティの一部だから。幾度となく揶揄(揶揄といえばまだ優しい)されながらも、変えられない——変わらなくていい——自分と向き合い、生きることを選んできた。今はここに、確かな誇りがある。

 

 

“Do I dare be vulnerable?

 What if I lose all control?

 But I don't wanna be alone

 Every day of my life

 Every day of my life


 So I gotta watch out

 Who I share my affection with

 Until I find love

 Cuz I'm way too affectionate

 Not gonna park my desire

 Til I find love

 Til I find love

 Til I find love”