真夏の秋
「9月並み」と伝えられる気温。エアコン要らずで、窓を開けると清涼な風が流れる。夕暮れ、素肌には少しだけ肌寒いほどに。
体力的には過ごしやすいが、気分の方はどうか。今日の空気は秋のそれに似て、そっと一抹の寂しさを運んでくる。僕は吸って吐いて、淡い生の実感を得る。
静けさと、遠くに近くに、蝉の声。夏だ。まだお盆も迎えていなかった。すぐに炎天が戻って、再び猛暑に喘ぐに違いない。長岡花火、見たかったな。
秋を思うなんて性急だが、ひと月やふた月なんて、気がつけばあっと言う間に過ぎ去ってしまうもの。冬の星も、春の花も、遠からず現れるだろう。そうして季節を繰り返す生涯、きっと長く短い。
自分であること
“女性関係”について問われる度に思う。僕が女性を好きになるという前提は(その事実を示していない状況において)なぜどのように生じるのか。答えは明らかで、要するに多数決の原理なのだろうが。
特別な事情を介さなければ、この類のコミュニケーションを理由に気分を害することはない。元より相手の思慮に多くを期待していないし、そもそもこの違和感は“当事者”しか経験し得ないはずだから。
僕の現在の態度を言語化するなら、「恋の対象を性別によって限定しない」が概ね適当である。ここでは簡潔な記述を優先し、注釈は与えない。
必要性が認められないうえに一定のリスクが予測されるため、現時点では公然たる明言は避けているが、過保護に扱うつもりも無い。各位の読解力に委ねるくらいが丁度いい。
幼少期から、価値観や趣味嗜好などの側面で周囲との不一致に慣れてきたため、少数派に属することそれ自体への抵抗は覚えない。苦痛の因子となるのは、ジェンダーの文脈における静かで強かな圧力。
僕は自分自身を一先ず男性だと認識しているものの、内面に鑑みればこそ、そう断定する気分にはならない。実感としては、相対的で流動的。どちらにも属さないまま、どちらにも通じていたい。
男らしさとか女らしさとか、概念自体は否定できないし、個人的な理想として胸の内で期待する分には自由だ。しかし、それを絶対的な価値観として共有されるとき、僕の尊厳は失われる。ジェンダー以前の問題なのに。
中性的であることは、もうアイデンティティの一部だから。幾度となく揶揄(揶揄といえばまだ優しい)されながらも、変えられない——変わらなくていい——自分と向き合い、生きることを選んできた。今はここに、確かな誇りがある。
“Do I dare be vulnerable?
What if I lose all control?
But I don't wanna be alone
Every day of my life
Every day of my life
So I gotta watch out
Who I share my affection with
Until I find love
Cuz I'm way too affectionate
Not gonna park my desire
Til I find love
Til I find love
Til I find love”
イタリアに行ってみたい
今夜のVNL(Volleyball Nations Leagueの頭文字)は対イタリア戦。日本のトッププレイヤーも修行に出るほどの強豪国。
両者ともリードを許さないフルセットの激闘は見応え抜群だが、TV越しにも緊張を強いられる。流れのスポーツと語られるだけあって、一つ一つの局面が全体を左右するもの。最終セットは15点先取だから尚更だ。
だからこそ、その末に待つ勝利の興奮は最大化される。イタリアが得点すればデュースという危機的状況の中、あの最後の瞬間、ブロックを決めてくれた藍ちゃんに盛大な拍手を送りたい。ジャンプ後の負傷が疑われた後の見事な復帰・活躍、こちらが泣いてしまう。
石川キャプテンのプレイにも痺れた。プレッシャーへの耐性も然ることながら、ここぞという所での、冷静な判断と確実な技術。日本が誇るエースは、昨日JOCシンボルアスリートに認定されたそう。
さて、自分にとって最大のハイライトは、やっぱり西田くんの3連続サービスエース。無論スパイクも一級だが、もう圧倒的に強い。チームの士気とオーディエンスの熱気を一気に高めてくれるところも。我が心の恋人、so proud...
ドイツに行ってみたい
“Das Beste oder nichts”
英語だと“The Best or nothing”で、邦訳すると「最善か無か」。メルセデス・ベンツの企業理念である。より詳細には、同ブランドの生みの親の一人、即ち自動車の歴史を切り開いた天才技術者、ゴットリープ・ダイムラーの口癖だったそう。
「形態は機能に従う (Form follows function)」「神は細部に宿る (God is in the details)」と並んで、僕の好きな言葉だ。
生きている限り、完全なる「無」を選択することは事実上不可能な場合もあるが、少なくとも姿勢として、重んじていたい哲学である。
何より、飽くまで「最善」を追求する実直さに真価があるのだ。理想は高い方が好い。
そして、最善の何たるかを知れば知るほど、他への欲求は反比例する。突き詰めたところで、某氏の「〇〇か、〇〇以外か。」という論理が完成するようだ。
技術や芸術に限った話ではない。人間関係だって、それでいいじゃん。
夏至の前日に
一度目が覚めてから眠れず起きていたが、4時丁度でこんなに明るいのか、と感動している。東の空は、ピンクグレープフルーツみたいな色。一定のリズムかつ高いピッチで囀る外の鳥は、何と呼ぶのだろう。蒸し暑さに嫌気が差す毎日だが、明け方の空気は清々しい。最高。
時の移ろいを五感で知るのが好きだ。何にも代え難い悦びがある。究極の贅沢と言っても過言ではない。今この瞬間、生きていて良かった。
不快でも快感
昨日は今季初めて、夏の夜の匂いがした。
湿気をムダに多く含み、気温も下がりきらない、あの感じ。快適とは言い難い。
高温多湿を天敵とする僕にとって、少なくとも過ごし易さという観点で見れば、夏は好ましい季節ではない。蓼科あたりに逃げたくなることも屡々。
でも、夏それ自体は嫌いじゃない。いやむしろ、実は好きだったりする。
思い出が夏にあるとか、アイスがおいしいとか、事象の一つ一つも理由にはなるのだけれど。
何より、自分自身から解き放たれるような、そんな気持ちよさが好きなのだ。暑さのせいで、心が裸になれるのかもしれない。
■
2022年4月22日。
1日、1日、ただ生きていたら、1年が経ってしまった。それだけのことだ。
笑って写真を見返せるようになった今でも、現実と向き合うこと、現実を受け容れることを、密かに拒んでいる自分がいる。後悔だって、挙げたら切が無い。悲しみの絶対値は変わらない。
そう泣き言を溢している間にも、不在は日常になっていく。意に反して一方的に流れていく歳月に空虚を覚えるが、救われている側面もあるのだろう。
偶然の出会いから11年間。子どものようで、弟のようで、友達のようで。晴れの日も雨の日も、学校から帰れば当たり前に待っていてくれて。僕の成長を、実は一番近くで見ていてくれて。
そんな世界は一瞬で幻となり、僕は命というものを知った。終わりの無い喪失感を背負い、無数の思い出を反芻しながら。永遠を超えて愛し続ける。これは変わらない真実。