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気分と時間が合った。備忘録の続きを書く。東海道新幹線の中で。
2022年の話。4月にドリカムのツアーが終了して間もなく、5月にも彼らを拝む機会が訪れた。
ただし今回は態様が違う。ドリカムであってドリカムではない。
いろいろ忘れ難い5月26日。
選りに選って木曜日だった。週で唯一、午後に授業がある日だ。大学のゼミ、懐かしい。しかも終了は通常19時頃。19時の開演に間に合うわけがない。
前日からメールで早退を伝えておいた。「いつも協力的に参加してくれているので、都合がつかないときは大丈夫です」と有難い返信を頂く。
しかし尚、別な問題に直面。早退は許されたが、その前に成績を大きく左右するテストを受けねばならない。目的地への所要時間を逆算すると、学校を発つリミットは17時。嗚呼。
テストは最高点に終わり、答え合わせ・解説中の早退でも角が立ちにくい。頭が悪くなくて良かった。普段よりも早足で駅に向かう。
帰宅とは反対方向の電車。ここで間違えたら一巻の終わり(言い過ぎか)。慣れない八丁掘駅、慣れない京葉線を経て、新木場駅にて18:11着・18:11発の乗り換えに成功。辿り着いたは有明ガーデンシアター。
前置きが非常に長くなった。本題に入る。
LOVE SUPREME presents DREAMS COME TRUE (featuring 上原ひろみ, Chris Coleman, 古川昌義, 馬場智章) & WONK
直前になり当日券での鑑賞を決断した公演のため席は上方・後方だったが、シアター自体が特段大きくなく見やすかった。そして結論から述べよう。行くか否か迷ったのは疑う余地も無く愚行だった。あれは、人生に一度でも同じ空間で味わわなければならなかった、と。
吉田美和の歌唱力に関しては、改めて言うまでもなく圧倒的に高い。
低音から高音まで一切の淀みが無く、精確なピッチの中に心地良い揺らぎがある。彼女の歌声を表現するのに、私はいつも「深み」という言葉を使うのだが、言葉での説明は蛇足の域かもしれない。“生”で聴けば分かる。以上。
うまい歌は、生で聴くとより詩が響く。乗せられる言葉そのものは原曲と変わらないのに、だ。物理的に直接届くからでもあろうか。普段からよく聴いていても、ハッとする瞬間がある。
そんな吉田美和の歌を、上原ひろみによるピアノをはじめとして、ジャズアレンジの演奏が彩った。その場限り・その一瞬限りの極上の音が、一級のセンスとテクニックを持った音楽家により、まさに目の前で奏でられる贅沢。
音の粒が空間全体と対話しているのだ。自由自在に暴れ回っているようでいて、そこには完全な調和がある。私は途中笑っていました。もはや何も理解できなくて。諸々の臓器が出そうにもなりました。あれは人間業ではない。
時間芸術の最高峰。「聴いてみな、飛ぶぞ」ということである。エクスタシー。
夢だったのか現だったのかも曖昧で、溶けてしまいそう。そのまま東京湾に沈んでも後悔は無かったでしょう。
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2022年初めのライブはDREAMS COME TRUEだった。
ツアーの起点は2021年秋に遡る。9月25日に予定されていた幕張公演が緊急事態宣言により中止となったために、初日が僕の誕生日にして僕の地元での公演になるという偶然が生じた。翌日の10日にはJR東日本の沿線火災で大慌て。まさか渋谷にいて(IC試験を受験した→落ちた)交通難民になるとは思わなかった。
疫病が蔓延する世界でエンターテインメントを続ける難しさ。2020年以降、大半のアーティストが苦慮してきたことだろう。
当然ドリカムも例に漏れないが、ここで彼らの意地を見た。感染症のリスクに鑑み、最小限の関係者による開催が強いられたが、彼らはその環境・条件を“利用”したのだ。
その結果が「ACOUSTIC風味」である。ステージ上にいるのは、ボーカルとベース以外に、アコースティックピアノ(兼サックス)、アコースティックギター×2、そしてDJという特異な編成。
普段なら大人数のバンドで鳴らす楽曲も、全く別な響き方をする。“聴かせる”アレンジが心地良くて、吉田美和の詩の世界にも意識が向きやすい。おまけに音質も優れている。
音を間引いたアコースティックサウンドであっても、あくまで「風味」だから、決して単調にはならない。奥行きが沁みるのだ。この絶妙な匙加減は、紛う方なきプロフェッショナルの仕事である。
こうして満足できているのは、極上の選曲があってのこと。
ドリカムの楽曲が元来持つ味の良さ。それを改めて確認する場になった。素敵なものは文字通り、素で適うのである。
「コロナのせいで」と悲観するのも構わないが、「コロナのおかげで」見られた世界があるのもまた事実。楽観できるなら、その方が健全だ。
懐古ログ
昨年は個人的な音楽シーンにおいて、貴重な体験が重なった。“狭く深く”のスタイルゆえ、3名(組)以上のアーティストのライブに足を運ぶこと自体が2018年ぶりだったし、初めて生で観られる新鮮さもあった。
本当なら年末に総括する予定だったが、何かと慌ただしく(厄介事にも巻き込まれ)過ごした挙句、年越して持ち越し。すでに2023年も12分の1が終わろうとしている。困った。
とは言え、このまま記憶の中に眠らせておくのは実に惜しまれる。他の誰でもなく、ただ自分のための記録として、順を追ってここに残していきたい。書き終わるんだろうか。
気高さは買えない
「くず餅」は某和菓子屋の看板商品で、それに罪は無いのだけれど、奇しくもブーメランのように響いてしまう。漢字だと「葛」と「屑」で異なることは断っておく。
その某和菓子屋の某(元)代表取締役社長が起こした交通事故が話題。
簡潔にまとめると、信号無視をして衝突、相手方に怒鳴り散らした末、ドアを蹴飛ばしたというもの。加害者が乗っていたのはベントレー コンチネンタルGTである。一目でそれと判るフェンダーのライン、美しい。
ネット上には、加害者のハラスメントが社内で常態化していたとの情報が何件も流れている。噂の域を出ないとは言え、あの動画を見た後では信じるに難くない。
当人の器量とは無関係に地位を得られるゆえの愚行。オーナー企業あるあるだ。昨日完結した『六本木クラス』の登場人物と重ねてしまう(観始めたらハマるのが連ドラあるある)。
今こんなことを書いているのは、極めて個人的な一意見を述べるためだ。
ベントレーに乗らないでくれ。
英国の高級車は、その嗜み方を知る大人のための、気高い乗り物なのだから。
To Your Majesty
日本列島には巨大台風。「数十年に一度」は使い古された感があっても、「過去に例が無いほど」と形容されるのは新鮮だ。文字通り「過去に例が無い」のだから、聞き馴染みがあっても困るのだが。それはさておき。
英エリザベス2世女王陛下が、去る9月8日に崩御された。96歳、在位70年。
日本に生まれ育った私は、英国の地へ足を踏み入れた経験も持たないけれど、女王の存在は“シンボル”として意識していた。ユーモアに富み、時にチャーミングでありながら、英国君主として強く美しくあった女王が好きだった。故に今は淋しくてならない。
親しみという点で個人的に記しておきたいのは、女王の自動車に対する情熱。90歳を超えても尚、愛車のレンジローバーを自ら運転されていた。鮮明に印象づけられている。
昨年から健康状態の悪化が顕著だったそうだが、それでも私の中では「さっきまでお元気だった」ように記憶されている。現に、亡くなる2日前にはトラス新首相の任命に当たられていた。「生涯を公務に捧げる」との宣言は、75年もの年月を経て果たされたのだ。
それにしても、国葬に至るまでの一連の段取りが、極めて円滑に執り行われたことに驚く。然もありなん。1960年代から「ロンドン橋作戦」が周到に練られていたと知れば、この芸術と言っても過言ではない最後の儀式にも頷ける。死去が公式に発表される直前、バッキンガム宮殿の上空に二重の虹が現れた運命も含めて。
画面越しではあれど、ウィンザー城へ向かう棺を見る度、実感が増して悲しみが募る。一つの命の終わり。一つの時代の終わり。こうしてまた、新たな歴史が描かれていく。
しかし私の中で「英国の顔」は、この先もずっとエリザベス2世女王であり続けるだろう。改めて、ここに敬意、そして弔意を示したい。
どうか安らかに。
眩しさの後
今年の8月もあと数日で終わり。窓辺に立って息を深く吸い込めば、長野の避暑地を思い出す。空気はやっぱり、ある程度冷たい方がおいしい。25℃前後の最高気温は、季節は絶えず移ろうものだと教えてくれる。とは言え、天気予報によれば週の半ばは再び猛暑日。どこか安心している自分もいたり。嫌いじゃないの。
人恋しさを季節の所為にしてみても哀しいだけ。僕が求め続けている文字通りの「自由」とは、孤独と引き換えに勝ち取ったとして、果たして真の意味で「自由」なのだろうか。近頃、疑わしくてならない。
年齢を重ねるにつれ、エアコンの人工的な風をあまり好まなくなった。光熱費や環境負荷に対する後ろめたさもあるのだが。今夜は自然の風を頼って、遠くに虫の声を聴きながら眠ることにする。翌朝に喉が痛くなるリスクくらいは負いたい。